内田樹『知に働けば蔵が建つ』

知に働けば蔵が建つ

知に働けば蔵が建つ

この本は、読書会の課題図書、オルテガ『大衆の反逆』についてまとめられている部分がある、というので図書館で借りてみた。期待通り、簡単な文章でその要旨が書かれていたのでたいへん助かった。その後、改めて読んでみたら冒頭からビビった。

大学教授である筆者(うちだ たつると読みます)が、講義で得たものは何かというアンケートを学生にとると、雑学のような答えが返ってくるというところから、雑学と教養の違いを考察していくのだが、

雑学というのはトリヴィア・クイズに「早押し」で解答することである。だから設問から解答までの時間がゼロであることを理想とする。つまり、雑学とは究極的には「無時間モデル」なのである。
それに対して真に人間的な知性の活動は「そのこと」をトリガーとして「お話を一つ思い出す」という時間的な歴程をたどる運動のことである。

(はじめに―知性と時間)

(その前のフリもいろいろと効いているんだが、)これを読んだ瞬間、普段から時間的空間的に広がりの無い雑学ばかりの私は、耳が痛くなりすぎてのたうちまわった。思わずゲーセンのクイズゲーム『アンサー×アンサー』から足を洗うことを決意してしまったぞ。

この本は、筆者のブログ「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com)をまとめたものである。どこかのんびりとした語り口で、ユーモアも交えつつ、必ず決めの哲学的考察がある、というエントリをほぼ毎日書いている。

コミュニケーション感度は生得的なものではない。
人は「イヤな仕事、嫌いな人間、不快な空間」を「我慢する」ために、みずから感度を下げるのである。
だから、「嫌いな人」と付き合ってはいけない。
じゃあ、好きな人とばかり付き合えばいいのか、…
(略)
それは短見というものである。
「気の合う人間」なんて存在しない。「好きな人」なんて幻想でしかない。
これもまたあなたの生物学的なコミュニケーション感受性が選別している「コミュニケーション資源を優先配分した場合、リターンが比較的確実であると見込まれる個体」にすぎない。

(嫌いな人との付き合い方)

モードというのは逆説的なものである。
というのは、ある服装をしたり、ある持ち物を選ぶことが「流行感度の先端性の記号」であるということが理解されるためには、「流行感度の先端性」を解読するリテラシーが「すでに」大衆的に共有されていなければならないからである。
(略)
それ自体の先端性を否定することなしには、先端性として認知されないという「脱構築」的な宿命ゆえに、流行はすぐれて人間的な現象なのである。

(モードの構造)

抜書きすると小難しく見えるかもしれないが、簡単な導入から始めてそれなりに複雑な結論まで読者を連れてきてしまうこの人の文章には、恐ろしいほどの中毒性がある。危なっかしくて、うっかりハマれねえよ。

でもお勧めします。逆説的に。