穂村弘『世界音痴』

それでは、こちらの「おおかみ」はどうなのか。

僕は青春ゾンビ、僕は恋愛幽霊。末期的都市に生きる歌人穂村弘(39歳・独身・総務課長代理)。寿司屋で注文無視されて、夜中に菓子パンむさぼり食い、青汁ビタミン服用しつつ、ネットで昔の恋人捜す。(「BOOK」データベースより)

そんな人が書いた短編エッセイ集である。

世界音痴

世界音痴

表紙は、青くほの暗い照明の中に、寿司がベルトコンベアを廻っている。それを筆者が無表情に眼鏡越しに見つめている。なんだ、この無視できない寂しさは。

自己実現」と云えば聞こえがいいが、国とか故郷とか家族とか誇りとか道とか、自分よりも大きな何ものかとの関わりを喪失した(というか初めから持たない)私にとって、それは「自分かわいさの追求」とまったく区別がつかないものだ。最後の拠り所であった恋愛に熱中できなくなってからの私には、もう<私>しか熱中するものがない。今の私の日常生活は、人間が「自分かわいさ」を極限まで突き詰めるとどうなるか、という人体実験をしているようなものだと思う。 (ビタミン小僧)

うわあああ。

飲み会が苦手である。友だちにそう云うと、飲み会なんて、ただ自然に楽しめばいいだけじゃないか、と不思議がられる。だが、私はまさにその「自然に」楽しむことが、いちばん苦手なのである。(略)飲み会のとき、離れた席から、ほむらくーん、と呼ばれると、涙が出るほどうれしい。呼ばれた理由が何であってもうれしい。いそいそとそこまで行ったところで、「眼鏡外して見せて。ほらほら、このひと眼鏡外すと面白いんだよ」と云われてもうれしい。この世界に、一瞬、触われたことがうれしいのである。(世界音痴)

いやあああ。

「ほむらくんは、ぼんやりしてるから」と云われることもある。(略) 本当は私はぼんやりなどしていない。むしろ普通の人がなんとも思わないことまで、ひとつひとつの出来事を痛いくらいに意識しているはずだ。「自然さ」を奪われた者は、そうしなくては生きていけないからである。だが、どんな努力も「自然さ」の替わりにはならない。人は私の「不自然さ」にあるとき必ず気づく。「魔女狩り」のない時代で本当によかった。(再び、世界音痴)

やめてえええ。

読んでいる人には何のことかわからないかもしれないが、私は上に引用したようなことを他人事として無視できない。それとも、これは、自分と似たような人がいたと思って安心してしまっていいのか。比べるのはおこがましいかもしれないが、淡々と書くドライな文体まで、私と似ている。そうすることで、何かとの距離感を必死に計って保とうとしているように。「作者は自分と違うタイプだなあ」と思っている人は、この本を読んでどう思うのか、知りたい。

淡々として書いた文章で、印象に残るものをどこかで読んだ。大竹まこと『結論、思い出だけを抱いて死ぬのだ』(id:atnb:20060205)だった。しかし、大竹まことの淡々とした感じは、自分自身を持て余している照れを隠すのとニヒリズムが綯(な)い交ぜになったものだ、と思う。穂村弘の場合もそれが似ていて、自分を持て余しているのだが、それは平たく言えば自分の「子どもっぽさ」からきているという自覚がよく伝わってくる。だから、私は大竹まことの文章に憧れ、穂村弘の文章に自分を見て震え上がってしまう。そして少し笑ってしまう。

ちなみに、作者と私は、現在ではテレビによく出てくる元プロレスラー北斗晶に、1996年当時には世間的にまったく知られていないのに注目していたところも共通しています。

この作者の本を続けて読んでいいものかどうか、悩んでいる。何か、取り込まれちゃいそうで。でも、文中に登場するこの人の短歌は、ちょっと好きだ。短歌の才がある人だから、こうして何とか楽しく読めるのだろう。こういう人が私の近くにいたら、仲が良くなるのか、それともその逆なのか。