感動という言葉を避ける私

ちょうどテレビで北京オリンピックの中継をしていて、男子200m平泳ぎの決勝が始まるところだった。北島康介が金メダルを取った。スポーツやオリンピックに興味は薄かったが、レースを見ていた私は確かに興奮していた。

はた、と気づいたのだが、私は興奮はしていた。しかし、感動はしなかった。

おおむね同意

友人の id:rararapocari が、『五輪の「感動」はどこから生まれてくるのか?』というテーマでエントリを書いていた。私なりにまとめると、

  1. "LIVE"やテレビ生中継であること、競技者と観客の一体感から生まれる。
  2. "秘話"に代表させるエピソードとして語られる感動もあるが、それは二次的なものであり、それを強調されるとゲンナリする。

という内容だった。おおむね同意する。

今年は、金メダルの奪取を煽るようなテレビ中継は自粛しているようだ。しかし、それは上に当てはめれば、1. の演出を抑えているだけであって、2. の部分は相変わらずなのだ。

rararapocari のエントリにも引用されている村上龍はスポーツ、とくにサッカーを愛好しており、2002年のFIFAワールドカップの際にも「感動をありがとう」というフレーズの違和感を再三指摘していた。感動は、観客が主体となる、もっと言えば自己完結した感情のひとつである。それを声高に叫んだとしても、その感動する状況を共有していない周囲の人間は、そして当事者である競技者でさえも、戸惑うだけだろう。もちろん、それは観客が受ける感動の質を損ねるものではない。白けることはあるかもしれないが。

違和感を覚えた部分

これはエントリ最後の部分なのだが、

そして、スポーツ以外の部分にも広げるならば、「物語」には気をつけたい。最近、自分たちは「感動」や「気づき」を糧にしないと生きていけないのではないか、と思わせるほど、世の中には、感動や気づきの「物語」が溢れているが、そんなことはない。

なぜ唐突に「気づき」という言葉が出てくるのか、と戸惑っていた。考えてみたのだが、この場合の「気づき」とは、「これを見て、受験をがんばろうと思いました」でも何でもいいが、感動をさらに自分の物語として還元すること、を指しているのではないか、と推測した。そうしなければ意味がない、損だ、と言わんばかりの。実は自分もやりがちなことなのだが。

単に、商品として売りやすいのが「物語」であり、「物語」にできない、一期一会的な部分にこそ、自分にとっての重要な何かがあるはずだ。
つーか、あれだ。ビジネス書は全部ブックオフに売って、旅に出よう、という話だ。

しかし、この部分がすでに「気づき」の物語にとらわれており、矛盾を起こしているような気もするが、私の揚げ足取りだろうか。

自分の話

翻って、私は、他人に伝える、という目的でなくても、感動という言葉をあまり使いたくない。自分に生まれた点のような感情や印象を表現するにはあまりにも範囲が広く、反論が難しいビッグワードであり、自分自身でさえも思考停止に追い込むような「諸刃の剣」を感じているからである。たとえば「愛」という言葉の取り扱いが難しいのと同様に。北島康介のレースを観戦して受けた感情を正確に表す言葉は、「興奮」であり、「感動」ではなかった。だから始めにそう書いた。

しかし、それでも自分が感動する要素は何か、と考えると、競技者が集中し、正確にかつ的確にプレイし、最終的に勝利することにどれだけ精力を傾けるか、という、あくまでも競技者から発信される事柄。それだけなのだ、と思い至った。

そして、それは自分が好むあらゆる表現に追い求める性質なのだ。id:atnb:20080727 でも、お笑いのTV「27時間テレビ」についてこう書いていた。

これは論外としても、テレビを見て面白い、と思えるのは、つまらなく編集されたものではなくて、生放送一発のような非日常を前提にしたコンテンツだけなのではないか。それは自分がプロレスを見ている気分にとても近い。
(easy writing - PCにつきあっていると、休日はすぐに過ぎる)

思えば自分が何かを批評してブログに書き記すとき、周囲の雑音や余計な演出はいらない、とかそんなパターンばかりではないか、と恥ずかしくさえ思う。