ブログ文章術 その後

前回、3月5日に書いたエントリで、前置きを5回書いた「ブログ文章術」は、「7:3で、次回も本題に入らない」と予想しました。

その結果、エントリ*1を見てみたら、intermezzo(間奏曲)と書かれていました。「幕間に演奏される曲」という意味ですよね。まだ幕が開いていないと思うのですが。

タイトルは「言葉からこぼれ落ちるたくさんのこと」とあり、その内容は、要約すれば、言葉を発したときの「ズレ」は、書き手と読み手の間にどうしても生じるものだが、それでも対話を求めるために、ブログを書く、というものでした。

私が気になったのは、言っていることが正しいかどうかではなく、

  1. なぜこれを、いま1回分の連載枠を使って書くのか
  2. なぜ書き方が感傷的過ぎるのか

ということでした。

言葉を発したときのズレについては、すでに2006年2月3日にある「誤解から深まる理解があるからブログは楽しい」とやや重複しています。片や内容の論理、片や単語単位という違いはありますが。そして、言葉のズレを、表現の「希望」と「絶望」に結びつけていますが、そのような内容ならば、「ほぼ日刊イトイ新聞」に連載中の山田ズーニー氏「おとなの小論文教室」*2とつい比べてしまい、説得力に乏しい、と感じます。1回の連載をわざわざそれに費やしてしまうのはもったいない。

当初の提言どおり、横のつながりを意識した文章術を、できるだけ軽やかにプレゼンしたほうがいいと思います。中途半端にシリアスになったり、ましてや以下のように、感傷的に書くのは、どうなのか。

今から、この原稿をメールして、外に出かける。 (いつから、純粋に空を見てないだろう)空を見て、夕日の色を感じてみよう、と思う。 その時の気持ちを、ぼくは、文章にする。 希望をこめて。

どうして急に青春ポップスの歌詞みたいな文章になってしまったのでしょうか。しかし、これは単に自分の好みの問題かもしれません。感傷的に書いたりすることは、私にもあるでしょう。しかし、それをそのまま書いてしまっていたら、それは痛い。読ませるためには、芸の域にまで達しないと、ってそれじゃプロか。

  1. ネタがない、またはどう展開していいかわからない
  2. 実は飽きてしまった

のどちらかではないのか、とまたまた疑っています。次回も引っ張るんでしょうか。テレビを見ていて「答えはCMのあと!」を、きちんと確認できている人は、意外と少ないのではないでしょうか。ほかのチャンネルに変えている間に、結局見逃してしまう。引っ張れていると思っているのは、テレビを作っている人だけだったりして。数分間でそうなるんだから、ましてや一週間では。

もはや別の意味で期待してしまいます。